『聲の形』考察──ガーデンピック・花火の夜・映画のラストに宿る意味を考える

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⚠ この記事は映画『聲の形』および原作漫画全7巻のネタバレを含みます。未視聴・未読の方は先にこちらをどうぞ。
『聲の形』をまだ観ていない人間に告ぐ──この沼は一度落ちたら戻れない


『聲の形』を映画で観て、原作を全巻読んで、公式ファンブックまで読んだ。
それでも引っかかっている場所がいくつかある。

この記事では、私が引っかかった3つの疑問について、作者の意図と独自の解釈を区別しながら考えてみる。
公式本の一問一答やロングインタビューで答えが出るものもあれば、出ないものもある。
答えが出ないまま考え続けること自体に意味がある──そう思える作品だからこそ、この記事を書いている。

ガーデンピックは「伝わらなかった声」の象徴だった

「意味のないシーン」で終わらせていいのか

原作で西宮が石田にガーデンピックをプレゼントするシーンがある(第23話)。
庭の土に刺して使うガーデニング用の小さな飾りだ。

「特に意味のないシーン」「ラブコメ的ギャグの小道具」として片付けられがちなこのアイテム。
私も最初に原作を読んだときはそう思っていた。

しかし公式本の一問一答(Q80)を読んで、認識が変わった。
作者はガーデンピックについてディスコミュニケーションの象徴だと明かしている。

「ただの小道具」だと思っていたものに、作品のテーマが凝縮されていた。

二重に伝わらなかった声

第23話は、西宮がガーデンピックをプレゼントしたのと同じ回で、石田に「づき〜!(好き〜!)」と告白するシーンでもある。

つまりこの回では、二つのことが同時に伝わらなかった。
プレゼントの意味も、渾身の告白も、どちらも石田に届かなかった。

その後、石田は何度もガーデンピックの正体を聞こうとするが、結局一度も聞けないまま物語が進む。
そしてガーデンピックの使い方をようやく知るのは、原作終盤の第61話。

ここで面白いのは、一問一答(Q74)で西宮がなりたいのは「理容師」だと明かされていること。
しかし7巻の該当シーンでは、西宮がハサミの手話で夢を伝えたのに対し、石田は「美容師」と受け取っている。

ガーデンピックの意味が長い間伝わらなかったように、物語の終盤でさえ、西宮の声は正確には届いていない。
「伝えたいのに伝わらない」が、この作品では最初から最後まで繰り返されている。

筆談ノートとガーデンピック──「期待」と「すれ違い」の対比

公式本を読んで、もうひとつ気づいたことがある。

一問一答(Q11)によると、筆談ノートは西宮にとって健聴者とのやりとりへの期待の象徴だった。
声が出せない西宮が、クラスメイトと繋がるために差し出した「声の代わり」。
それが悪口を書かれ、石田に捨てられたことで、西宮は筆談すら諦めてしまう。

筆談ノート=コミュニケーションへの「期待」の象徴。
ガーデンピック=コミュニケーションの「すれ違い」の象徴。

この二つを並べると、西宮のコミュニケーションの歴史が浮かび上がる。

最初は期待を持って声の代わりを差し出した。それを壊された。
高校生になって再会し、今度はプレゼントと告白という形で気持ちを届けようとした。
でもまた伝わらなかった。

ただし、決定的に違うのは結末だ。
筆談ノートは捨てられた。でも石田はそれをずっと保管していた。
ガーデンピックの意味は伝わらなかった。でも最終的に石田はその正体を知った。

「伝わらなかった」まま終わるのではなく、時間をかけて少しずつ届いていく。
この二つのアイテムの対比が、作品全体の「声を聞けるようになっていく過程」を映し出している。

「わかった」瞬間の意味

第61話でガーデンピックの正体を知った石田は、満足そうな表情を見せる。

庭に刺す飾りの正体がわかっただけ──客観的にはそれだけのこと。
でもそれは、「西宮のことをひとつ理解できた」瞬間でもある。

高校時代にはプレゼントの意味も告白も何も受け取りきれれなかった石田が、時間をかけて少しずつ西宮の声を聞けるようになっている。
ガーデンピックの謎が解けることは、その道のりの小さな到達点だ。

なぜ花火大会の夜だったのか

作者が語った「カウントダウン」

映画後半、西宮が花火大会の夜に自ら命を絶とうとする。

映画を観ながら「なぜ花火大会の日なのか?」と引っかかった。
花火を見た後に決行する意味は何なのか。花火の音が聞こえない描写と関係があるのか。

これについて、作者はロングインタビューで明確に語っている。

西宮の自殺は花火大会の夜に突然決意したものではなく、小さい頃からの「人を不幸にした」「何かを壊した」という感覚が積み重なった結果だという。
作者はこの積み重ねを「カウントダウン」と呼んでいる。

花火大会の前から死ぬ準備をしていて、花火大会の日にその準備が整ったと実感した──それが作者の語った経緯だ。

「カウントダウン」の中身

ロングインタビューの情報を踏まえて原作を読み返すと、「カウントダウン」の具体的な中身が見えてくる。

筆談ノートは西宮の唯一のコミュニケーションツールだった。
そのノートに悪口を書かれ、石田に捨てられたことで、西宮は筆談すら諦めてしまう。
喋る練習をやめたのは、妹へのいじめと、母親の苛立ちが理由だったとも語られている。

コミュニケーションの手段を一つずつ奪われていく。
声で伝えられない。筆談も壊された。喋る練習もやめた。

公式本(Q49)では、西宮と石田はどちらも「誰かを不幸にした」から自殺をはかったとされている。
西宮の場合、自分の存在が周囲を不幸にしているという認識が、長い時間をかけて積み重なった。

花火大会の夜は、その「カウントダウン」がゼロになった日だ。

その他、主要なカウントダウンの内容。

  • 両親の離婚
  • 妹へのいじめ
  • 小学校でクラスの雰囲気を壊した
  • 佐原の転校の理由の1つとなった

それでも花火の夜である必然性

花火大会の日に準備が整ったという作者の説明は理解した。
でも私は、花火大会という舞台に別の意味を感じている。

映画では、花火の音が西宮に聞こえないことを示す演出がある。
イヤホンで観ていると、花火の場面で音がすっと遠のく瞬間があり、西宮の聴覚を疑似体験させられるような感覚があった。

皆が同じ空を見上げて、同じ光を見て、同じ音を聞いている。
でも西宮だけが、その「音」を共有できない。
楽しいはずの空間で、孤立が最大化する。

花火は「音と光」のセットで成り立つ。
光は見えるが、音は聞こえない。
「聲の形」──声の届かなさをテーマにした物語において、音が届かない最も象徴的な空間が花火大会ではないか。

これは作者の意図とは異なる私の解釈だ。
でも、花火大会という舞台が選ばれたこと自体に、無意識の必然性があったように思えてならない。

映画はなぜ「あのラスト」を選んだのか

原作のラスト──未来を歩き出す二人

原作を全巻読んだ後に映画を観ると、後半の圧縮に驚く。
原作では、映画のラストの先にまだ物語が続いている。

西宮は理容師を目指して東京へ行くことを石田に打ち明ける。
石田はそれを聞いて最初は焦るが、自分も家業の理容室を継ぐと決め、二人で一緒に頑張ろうと約束する。

Q65によると、石田が西宮に伝えた「君に、生きるのを手伝ってほしい」は、西宮にとって「自分の存在意義が感じられる」言葉だった。
自分が誰かを不幸にする存在ではなく、誰かに必要とされる存在だと感じられたということ。

石田はそれを理解した上であの言葉を選んでいる。

そして成人式。
登場人物たちがそれぞれ少しずつ変わった姿で再会する。

作者によれば、最後の二人が手を繋ぐシーンは恋愛関係の描写ではない。
いじめていた側・いじめられていた側の関係ではなくなったことを周囲にアピールするシーンだという。

死にたかった二人が、生きることを選んで未来に進む。
恋愛関係にあるかどうかはまだわからない。でも隣を歩いている。
個人的に、このラストがとても好きだ。

映画のラスト──「今、顔が見えた」

映画は、石田に全員の顔が見えるようになった瞬間で幕を閉じる。

×印が全部外れて、人の顔をちゃんと見られるようになった石田が涙を流す。
成人式も、西宮の夢も、映画制作エピソードもない。

作者は映画制作エピソードについて「皆が何かしらの形で『聞こえない』ことを自覚する」場面だと語っている。
原作を読んでいたからこそ、この場面がまるごとカットされたことに驚いた。

「聞こえない」ことの自覚は作品のテーマに直結する要素なのに、映画はそれを手放した。

「瞬間の純度」と「時間の重み」

原作と映画は、同じ物語でありながら、描こうとしたものが違うのだと思う。

原作は「人は変われる」というメッセージを、未来の姿で証明する。
成人式での再会、それぞれの進路、二人が並んで歩く姿。
そこには数年分の時間の積み重ねが生む「重み」がある。

映画は「変われた瞬間」そのものを着地点にしている。
石田が人の顔を見られるようになった、まさにその一瞬。
129分という制約の中で、この瞬間の「純度」を最大化するために、映画制作も成人式も手放すことを選んだのではないか。

どちらが優れているかという話ではない。
個人的には原作の成人式ラストの方が好きだ。

死にたかった二人が、それぞれの夢を見つけて未来に向かっている。
その事実の重さは映画のラストにはないものだから。

でも映画があの着地を選んだことには納得している。
そして、両方を体験しているからこそ、どちらの価値もわかる。

何か意味がありそうだけど、わからない──そこが沼

ガーデンピックについては、作者が「ディスコミュニケーションの象徴」だと語っていた。
筆談ノートとの対比で見ると、西宮のコミュニケーションの歴史──期待と挫折、そして少しずつ届いていく声──が浮かび上がった。

花火大会については、作者は「準備が整った日」だと語った。
でも「カウントダウン」の中身を追うと、コミュニケーションの手段を一つずつ奪われていった先にあの夜がある。
そして映画では、音が届かない空間としての花火が、声の届かなさのテーマと重なって見える。作者の意図と私の解釈は違うが、どちらも作品に根ざしている。

映画のラストについては、原作の「時間の重み」と映画の「瞬間の純度」という対比を見出した。
映画が何を手放し、何を残したかを考えると、129分の選択の必然性が見えてくる。

公式本を読んでも、すべてが明らかになるわけではなかった。
作者自身がロングインタビューで、テーマの答えを持っていないと語っている作品だ。

何か意味がありそうだけど、わからない。
でも考えることをやめられない。

それが、この作品の沼だ。


→ 関連記事:『聲の形』をまだ観ていない人間に告ぐ──この沼は一度落ちたら戻れない

参考情報源

  • 大今良時『聲の形』(講談社コミックス、全7巻、2013年11月-2014年12月刊行)
  • 大今良時『聲の形 公式ファンブック』(講談社コミックスデラックス、2016年刊行)── 一問一答:ガーデンピック(Q80)、西宮の夢(Q74)、筆談ノート(Q11)、自殺の動機(Q49)、「生きるのを手伝ってほしい」の意味(Q65)。ロングインタビュー:花火のシーン、カウントダウン、映画制作エピソード、ラストシーンの意図等を参照
  • 映画『聲の形』(京都アニメーション制作、2016年公開)── 公式サイト

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